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デザイナーのための知財10問10答|第3回 模倣/盗用/パクリ/オマージュ/パロディ/インスパイアのちがいとは

第3回 模倣/盗用/パクリ/オマージュ/パロディ/インスパイアのちがいとは

デザインを含む表現の現場だけでなく、いまや広く世間一般で使われる「パクリ」という言葉。大きな口をあけてものを食べるさまを示すこの言葉が、転じて「盗む」という意味でも使われるようになったのは一説によると明治時代に遡ると言われています。

「パクリ」という言葉は、ほとんどの場合、悪い意味で使われるのですが、一方で、過去の優れた作品や表現の模倣から、新しい表現が生まれてくるという言説もしばしば教育の現場ではなされますし、これは事実としてそうであると思います。パブロ・ピカソは「優れた芸術家は模倣する。偉大な芸術家は盗む」と言ったそうですが、「パクリ」やそれとほぼ同じ意味で使われているであろう「盗用」という悪いイメージの言葉と、ネガティブに捉えられていない「模倣」という言葉たちをどのように整理すればよいのでしょうか。

 

実は、著作権法も模倣すること自体を禁じていません。著作権侵害が成立するためには、前回触れた「依拠性」(既存の著作物にアクセスしたか)とともに、「類似性」(既存の著作物の本質的な特徴を感じ取れるかどうか)が求められます。ですが、逆に言えば、「依拠」しても類似する範囲に留まっておらず、「自分なりの新しい表現」に昇華できていれば著作権侵害の問題は生じません。また、具体的な表現に至らないアイデアに過ぎない部分がいかに似ていても著作権侵害になりませんし、著作権の保護期間が終了していたり、著作権が放棄されたりしている著作物については何らの制限もなく模倣(利用)ができます。

このように著作権法は模倣すること自体を禁じていませんが、「模倣」という言葉には許される模倣と、許されない模倣があり、後者のことを「盗用」とか「パクリ」と呼ばれるのだと整理することが可能です。

それでは、「許される模倣」と「盗用」「パクリ」の違い、すなわち「自分なりの新しい表現」に昇華できているか/いないかの基準はどのように判断したらよいのでしょうか。

これを一言で言うのは至難の技なのですが、あえて言えば、「既存の著作物の特徴を薄めるくらいの、独自の表現を加えているか否か」だと思います。写真家のホンマタカシさんは、近著『ホンマタカシの換骨奪胎:やってみてわかった!最新映像リテラシー入門』において、「ヒトツの表現は突然、天才のもとに空からふってくるわけではありません。しっかりと先人の作品を受け取って、自分なりに前進させて、また次の世代にパスしなければならないのです」として、「表現の換骨奪胎」のことを書いてらっしゃいますが、この「表現の換骨奪胎」の有無が「許される模倣」と「盗用」・「パクリ」の差異のことを言い当てているのではないかと、この本を読んで我が意を得た気持ちになりました。

 

同じような話が「オマージュ」や「パロディ」にもあります。いわゆる「パクリ」が問題となるときに、必ず出てくる「オマージュ」「パロディ」という言葉。いずれも定義が曖昧な言葉ですが、実は「オマージュ」や「パロディ」はいずれも日本の著作権法のもとでは許されておらず、著作権侵害が成立してしまいます。海外では、フランスのように「パロディ」を定義し、許容している国があります。米国では、いわゆる「フェアユース」という規定で許容されることがあります(何でもかんでも許容されるわけではありません)。

日本でも、かつて「パロディ」が法律的に認められるべきだと争われた裁判がありました。コラージュ作家のマッド・アマノ氏が写真家白川義員氏と争ったこの事件で、最高裁は「パロディは日本の法律上許容されていない」という判断を下しました。この最高裁の判断が先例となり、日本は世界的に見ても「パロディ」「オマージュ」に厳しい国だということが言えそうです。「パロディ」や「オマージュ」は元の作品がわからないとその意味や面白さが鑑賞者に伝わりません。なので、「パロディ」や「オマージュ」をする場合には、元の作品に言及する必要があります。でも、元の作品に言及すればするほど元の作品の権利者にバレる可能性が高くなります。当たり前ですよね、元の作品がわからないと意味がない行為なのですから。逆に、「盗用」・「パクリ」の場合には、当然のように元の作品には言及がなく、さも自分がオリジナルのように振る舞っています。結果、正々堂々と「パロディ」「オマージュ」をした場合には著作権侵害に問われ、「盗用」・「パクリ」をした場合にはバレずにそのまま、という「ねじれ」が生じているのが、日本の「パロディ」「オマージュ」をめぐる法的環境なのです。

 

とはいえ、日本でも「オマージュ」「パロディ」はあります。これらはなぜあるのでしょうか。答えは、放置または黙認されているということに尽きます。コミケなどの同人文化やYouTube、ニコニコ動画などをみれば明らかですね。では、放置または黙認される作品と削除請求される作品とで何が違うのでしょうか。様々な理由がありえますが、一つは、放置または黙認した方が著作者や著作権者の利益にかなっている場合があるでしょう。この利益には、気持ち・名誉的なものも含まれますし、宣伝になることによって自分の作品が売れるような構図にあれば、経済的な利益もあるでしょう。もう一つの理由として、「元の作品に愛がある」とか「リスペクトを感じる」みたいな場面がありえます。私の興味としては、どういう場合にクリエイターは「元の作品に愛がある」とか、「リスペクトを感じる」とか判断するのか、ということを長年考えているのですが、経験上、これがクリエイターごとによって見事に判断が違ったりします(苦笑)。元の作品のコンテクストを丁寧に、上手にズラしたうえで、元の作品に潜む価値までを再発見させるような批評的な「パロディ」「オマージュ」が許容されやすい、ということは口では言えますが、これは口で言うほど簡単なことではありません。

これらの言葉を整理したネット川柳ですが、とてもよくできていると思います。先ほど紹介したホンマタカシさんの「表現の換骨奪胎」という感覚?がこれらの整理にも妥当すると思っています。許される「パロディ」「オマージュ」は「換骨奪胎」されていて、ここに元の作品の著作権者は「愛」や「リスペクト」を感じるのではないでしょうか。米国のフェアユース規定が認められる基準として、「transformative(変容的)」かどうかという概念がありますが、表現として新しい価値が付与されているか否かを重視するフェアユースの考え方も、「表現の換骨奪胎」という考え方に近いのかもしれません。ただ、ファインアートのような時代や文脈が重視される分野では、このような「換骨奪胎」というのは比較的やりやすいですが、デザインや広告の分野ではある意味で文脈が「漂白」されてしまうことが多いので、「換骨奪胎」が難しいという面はあるかもしれません。

今の御時世、「パクリ」問題を語る際に、単に「似ているか/似ていないか」に話が終始してしまう傾向がありますが、それは法的にもナンセンスであることは前回書かせていただきました。今回はそれに加えて、「許される模倣」や「パロディ」「オマージュ」について考えることによって、やはり「似ている/似ていない」という話だけに終始しない表現論について考えてみました。「パロディ」「オマージュ」に対する日本の文化的寛容性ということを考えても、先はなかなか長くしんどいなと思ったりしますが、私はこの社会的寛容性をどうやったら育んでいけるのか、についてずっと考えていくつもりです。

第2回「似ているデザインがすでにある」のはダメなのか > 第3回  第4回(10/1掲載予定)

水野 祐 (みずの たすく)

弁護士(シティライツ法律事務所)。Arts and Law理事。Creative Commons Japan理事。慶應義塾大学SFC研究所上席所員(リーガルデザイン・ラボ)。グッドデザイン賞審査員。IT、クリエイティブ、まちづくり等の先端・戦略法務に従事しつつ、行政や自治体の委員、アドバイザー等も務めている。著作に『法のデザイン −創造性とイノベーションは法によって加速する』(フィルムアート)、『オープンデザイン参加と共創から生まれる「つくりかたの未来」』(オライリー・ジャパン、共同翻訳・執筆)など。

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