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ヒロセ(前編) 終戦直後の創業から現在まで、仙台の靴卸の栄枯盛衰

終戦直後の物資もない時代に廃タイヤの再生で初代が事業を起こして七十余年。長年会社が続いているということは、それだけ時代の流れや景気の波で浮沈にさらされてきたということでもあるが、中でも大きかったのはまるで小説のような一大離反劇。祖父の遺言に従って入社した翌年に、会社を左右する壮絶な出来事を目の当たりにした現在の代表取締役、菅井伸一氏が振り返るヒロセの創業からここまで。

終戦直後の創業から現在まで、仙台の靴卸の栄枯盛衰

―創業から現在までをお聞きしていきたいのですが、そもそもヒロセという社名の由来は。

菅井伸一(以下、菅井) 創業家は菅井なので「広瀬さんじゃないんですね」とよく聞かれるんですが、祖父が河原町で創業し、脇に広瀬川が流れていたことから、地域にゆかしい名前をということで名付けたそうです。アドビ社(Adobe Systems)も創業者の自宅の裏に流れている川から名付けたそうですし、流通業は川の流れにも例えられることもあり、ずっと社名を変えずにきました。

創業は終戦直後の昭和20(1945)年で、最初に祖父が手掛けたのが再生タイヤ事業です。戦争に使った車などのタイヤが大量にあって、それを溶かして2次精製するというものです。そのタイヤから長靴も作るようになり、それほどいいものではなかったと思うんですが、何も物がない時代でしたからね。

その後、タイヤの方はブリヂストンの販売会社になって、後に吸収されました。靴の方は製造をやめてメーカーさんから仕入れて販売するようになり、いまのヒロセにつながっています。

卸町に本社を構えるヒロセ。岩手、札幌、東京にも営業所を持つ

―製造から流通に切り替えたんですね。

菅井 ええ。ゴム靴というのは非常に大きい設備を使うもので、すでに九州や広島にゴム靴メーカーさんがたくさんあって十分に供給できる状態だったので、われわれは供給してもらって流通に専念しました。

戦後間もないころにゴム靴は配給制でした。当社の靴の取り扱いは、配給先の代理店を受け継いだのが始まりとなっています。長靴や運動靴などゴム靴の取り扱いが長く続き、その後、神戸で合成繊維を使ったケミカルシューズが作られ始めました。さまざまな配色でたくさんのデザインができる、いわゆるファッションシューズが流行となり、うちでも神戸に事務所を出しました。

―順調に事業を拡大されていったんですね。

菅井 ナイキやアディダスも含めて、うちが東北の代理店になっていました。ブランドが生まれてきたタイミングとうちの会社が展開した時期が同じで、加えて実需もある。新しいものを供給すれば供給した分だけ売れる時代で、「昔は良かった」というのはそういうことでしょうね。

本社1階で出荷を待つ商品。供給すればするだけ売れる時代もあった

―菅井社長が入社されたのはいつごろですか。

菅井 私は継ぐつもりがなく、ほかの国で暮らしたいという夢もあって、アルバイトでお金を稼いだら海外に行くことをずっと繰り返していました。そんなことをしているうちに平成9(1997)年11月、祖父が他界します。亡くなる時に「頼むぞ」と言われて、何を頼むかと言ったら会社のことですよね。それで翌年の4月に入社しました。

ちっちゃい頃から従業員が自宅に来てにぎやかに騒いでいたので、入社したらみんな顔が分かるし、「よく入ったな、頑張れよ」なんて言われて、「ああ、家族が継いできたいい会社なんだな」と思いました。ところが翌年、その従業員たちが次々と辞めていきます。

会社を左右した離反劇の全容を包み隠さず明かす菅井社長

―えっ?

菅井 92人いたんですが、50人ほど辞めていきました。役職者や営業力のある人、よく気が利く経理の女性や荷さばきが早い男性社員など、やっぱり力のある人からいなくなるんです。ドラマや映画のようで、本当にこういうことがあるんだなと。父親は毎月のように従業員から「話があります」と言われて、その段階でもう嫌になると言っていましたね。お前もか、と。

結果、倉庫係から経理、営業と根こそぎ引き抜かれて、まったく同じ業態の会社が作られてしまいました。それまで会社の売り上げの50%強あったブランドも持っていかれて、売り上げは私が入社する前年の平成9年をピークに右肩下がりになっていきます。暗黒の時代ですね。お金を勘定する人がいなくなったので財務をやり始めたんですが、素人でも会社の厳しい状況が数字で分かりました。

―壮絶な出来事でしたね。その後会社は。

菅井 とにかくお客さまに頭を下げて「買ってください」とお願いしていくわけですが、これはもう、そういう時代だったんでしょうね。平成12(2000)年から平成17(2005)年にかけて大型の小売業が倒産、破産を繰り返していくんです。ニチイマイカルグループや、靴販売店ではマルトミという当時業界ナンバー2だった会社が破産。地域で財を成した会社も年に1回はどこかが倒産するような状況でした。

そうすると、お願いして商品を入れてもらっても、お金が回収できなくなるわけです。売り上げの減退だけでなく資金繰りも悪化して、自宅から何から売れるものは全部売って、それでもいよいよ駄目だとなって、いよいよ不採算の部門を整理していきました。損益関係なくお金にすることを優先して、在庫を減らしていくこともしましたね。

従業員についても、ほかの会社に行くぐらいの人たちの方がある意味では野心があって血気盛んなんですよ。残った人は恩義を大事にしてくれたわけですが、おとなしめの人が多かった。それならばとトップダウンで動くようになって、地道にマイナスの部分を圧縮していきながら、従業員のモチベーションを上げるための取り組みを行っていきました。

現在は未来の会社を支える新人も毎年入社している

―苦しい時期が続いて、そこから上向きになったきっかけは?

菅井 平成20(2008)年ごろ、ブランドスニーカーのブームが起きます。当時まだナイキを扱っていて、売り上げの15%くらいを占めていました。翌年には契約破棄されるんですが、それでもその間に会社がふっと上向きになります。商品やお客さまとの付き合い方の見直しを図って会社も整理できてきて、やっと収益も出てきて、借入金の返済もめどがたってきました。

ところが平成23(2011)年、東日本大震災が起きます。宮城や福島の沿岸にはいいお客さんがたくさんいました。もともと漁師だった方が漁業をやめた後にいろいろな事業に転じていく中の一つに、靴屋さんもあったんです。漁業仲間のつながりがあっていい靴が売れる、いいお客さまがついていたんですけど、それがゼロになって。

―苦難が続きますね…。

菅井 なぜかうちの会社は、いい時があると何かが起きるんですよね。それでも震災後の需要もあって、その後は好調な時期が続き、いまは銀行から個人の保証なしに会社の信用でお金を借りられる状況まで回復しました。支払いについても「ファクタリング」という、銀行さんの信用で支払う決済を導入してもらえて、珍しい事例としてニュースにもなりました。

売り上げも資金繰りも安定して、ようやく会社が次に向かってどういうビジネスをしていくかという段階に入ったのがつい最近のことです。やはり社長でなければ会社は変えられませんから、平成27(2015)年4月に父親から社長を引き継ぎました。

取材・構成:菊地 正宏
撮影:松橋 隆樹

 

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株式会社ヒロセ

■本社 〒984-0015 宮城県仙台市若林区卸町1-3-7
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国内全域に販路を持ちナショナルブランドシューズおよびドメスティックブランドシューズ販売代理店、約150社。ファブレス生産による企画商品(PB、OEM)の開発。国内工場及び、中国・欧州を主とした契約工場へ生産依頼を行い国内向け商品の開発を行う。地方広域商圏を持っている商業施設へ出店。東日本に現在10店舗運営。

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