仙台クリエイティブ・クラスター・コンソーシアム

features

クリエイターインタビュー|梅田 かおりさん(前編)

照明デザイナーの梅田かおり(うめだ かおり)さん。9年務めた東京の照明総合会社を退社し、フィンランドへ移住。現地の大学でモノづくりを学び、設備設計事務所で照明デザイナーとしてのキャリアをさらに積み、帰国しました。
縁あって仙台で「ライティングデザインスタジオ LUME」を立ち上げて以後、仙台のライティングシーンを牽引し続けている梅田さんに、お話を伺いました。

―照明デザイナーとはどういったお仕事なのでしょう。

照明デザイナーの中には、シャンデリアなど意匠がメインの照明器具のデザインをする方もいますが、私の場合は、光そのものを使っていかに建物を使いやすく、快適な空間にしていくかといったことを考える仕事をしています。

―照明器具のデザインとは違うんですね。

照明器具の形をつくるというよりは、使い方、見せ方を含めた空間をつくることが中心です。アクセントとして必要があれば、意匠として見せる照明器具をデザインすることもありますが、基本的には光源はできるだけ隠して、光だけを建物の中に存在させる設計を多くしています。

―建物の設計と同時に照明の設計を行うのですか。

そうです。外光の取り入れ方も重要ですし、光源を隠すために天井や壁などにはめ込んだりするので、照明や照らされる素材も含めた建物全体の設計を建築家と一緒に考えます。

そして、設計の際には、住宅であればまず施主様の暮らしぶりや要望を伺います。例えば、「骨董のコレクションをしているから、廊下をギャラリーのようにしたい」という要望があれば、廊下は間接照明にしてコレクションにはスポットをあて、骨董のみが目立つように設計したり。以前手掛けた奄美の家は、施主様の一番の希望が「部屋から海を眺められること」だったので、窓辺の空間は暗い照明にして、夕方になっても外の景色が見えるような設計にしました。また、お客様が自分で気が付かない要望を提案することもあり、実際に採用していただき、生活に楽しみを与えられたときは一番うれしいです。

廊下に並ぶ骨董のコレクション
海の見える奄美の邸宅

―光の使い方ひとつで、シーンごとにいろいろな空間がつくり出せるんですね。

空間が心地よいとか、使いやすいって、すごく大切なことですよね。ちょっとした光のあて方でそれが左右されるので、照明設計はとても大事な仕事だと思っています。

あとは、単に良い空間がつくれれば良いかというと、そうではなくて。メンテナンスのしやすさだとか、使用する機器選びも考えなくてはいけないんです。電気製品全般に言えることですが、照明機器ってどんどん変わっていくんですよね。LEDの登場なんかもその例で。大きな建物だと、完成までに3年、5年かかってしまうので、その時に最適なものであるように設計するという難しさもあります。

―照明設計は大学で学ばれたのですか。

大学では工業デザインの学科でプロダクトのデザインを勉強していたので、照明設計は学んでいないんです。だけど、その時からモノよりも空間をつくることに興味を持っていました。父が建築家だったので、幼い頃から建築現場に行ったり、アルバイトで模型をつくったりしているうちに、建築っていいなぁと思っていて。そんなことも影響しているのかもしれません。

―建築家になりたいとは思わなかったのですか。

子ども心に、親とずっと一緒に仕事をするのは嫌だなって(笑)。だから大学も建築ではなく工業デザインを選んだんです。

照明設計の仕事を知ったのは、アルバイト先の設計事務所から「TL(テクニカルライティング)ヤマギワ研究所」という照明の研究と設計をしている事務所を教わったことがきっかけでした。当時最先端だった光源を見せない照明技法を使って、著名な建築家たちとバリバリ仕事をしている会社だったので、空間デザインに興味があった私にはすごくおもしろく感じて。そこに就職して、照明設計を始めました。

―具体的にはどんなお仕事をされていたのですか。

最初に入った照明計画室という部署では、いくつもの空港の照明を設計したり、そのための特注の照明器具をデザインしたりしました。

具体的にいうと、建物の一部分だけを強調したいときに、既成品だけでは狙い通りに照らせないことがあるんです。それを叶えるためには特注の反射鏡が必要なので、反射鏡を設計する部署に「こういう光を出したいんだけど」って相談しながらデザインする。建築への照明器具の収まりも提案しました。他にも大きい建物では、東久留米の市役所やJT本社ビルなども手掛けました。

開発部門にいたこともあって、そこでは海外へ行って現地の製品を日本仕様にして輸入したり、スポットライトなどの自社製品開発をしたりしていました。

JT本社ビル Photo:金子俊男

―夫婦でフィンランドに暮らしていたと伺ったのですが、お二人とも会社を退職されたということでしょうか。

そうです。私が入社して9年目くらいの時で、主人も務めていた会社を辞めてフィンランドへ行きました。

―どんなきっかけがあったのでしょうか。

入社して4年目くらいの時に、新婚旅行でフィンランドに行ったんです。そこで今のアアルト大学(当時はヘルシンキ芸術デザイン大学)の工房を見た時「ここで学びたい!」って思ったんですよね。私が日本で行っていた大学は、プロダクトデザインと言ってもスケッチを書いて終わりだったんですが、その大学は、スケッチだけじゃなくプロトタイプをつくるところまで教えていたんです。金属工房やガラス工房などのきちんとした設備があって、技官さんも常駐している素晴らしい環境で、自分の手でものをつくる学びができていたんです。「デザイナーがモノづくりを知っているから、フィンランドのデザインはいいんだ」って衝撃を受けました。それから夫婦で「いつかあの学校に行けたらいいね」って話をしていて、フィンランド語も勉強したりしていました。

―それから5年後に本当にフィンランドヘ行かれるわけですね。

働きながらいろいろな部門を知って会社の全体が見えてくると、「私は一生会社勤めでいいのだろうか」と思うことがあって。それが入社して9年目の頃だったんです。それで「そろそろ辞めて、フィンランドに行っちゃおうか」って。

フィンランドへ行って最初の1年半くらいは大学へ通って、工業デザインとモノづくりをしっかり勉強しました。会社にいた頃、何が一番困ったかって言うと、自分がモノづくりを知らないことだったんです。例えば照明器具をデザインしたとき、実際にそれをつくる工場から「このスケッチ通りにはできない」って言われても、自分がモノづくりを知らないから受け入れるしかないんですよね。けど、モノづくりを自分で知っていたら「そんなはずない」って言えるじゃないですか。だからフィンランドではとにかくものをつくることがしたかったんです。

―大学で学ばれた後は、どうされたのですか。

設備設計の事務所で照明デザイナーとして働き始めました。当時、フィンランドでは照明器具や建物のデザイナーはいたんですが、照明デザイナーっていう業種がなかったんです。なので運よく雇っていただけて。その後子どもも産まれて、結局フィンランドで7年くらい暮らしていました。

レッパバーラの複合施設セッロ

―日本へ戻られたきっかけはなんだったのですか。どうして仙台だったのでしょう。

主人が工業製品や服飾のデザイナーをしているんですが、東北工業大学の先生に「大学へ来ないか」と声を掛けていただいたのがきっかけです。私はフリーランスで照明設計の仕事を始めました。

―ゆかりのない土地で、仕事をしていくのは難しかったのではないですか。

最初は、仕事よりは仙台のまちに対して何かしたいなっていう気持ちが大きくて。フィンランドでの生活を通して社会制度みたいな部分にも関心があったので、行政の協議会などに参加していました。デザインの有識者として関わったものもあったので、それが関係してか、仕事は人づてで声を掛けていただけるようになっていきました。

―磊々峡を始め、秋保のライトアップは今では人気のイベントですが、これらを手掛けることになった経緯を教えてください。

磊々峡のライトアップは仙台市が関わっている事業だったので、それまでの仕事のつながりで声が掛かったという感じでした。話をいただいた時は“秋保でライトアップ”ということ以外、ライトアップするポイントも企画も何も決まっていない状態で、正直困りました(笑)。

―場所選びからのお仕事だったのですね。

主催者となる観光協会の旅館さんがあるエリアで場所を決めましょうっていうことで、現地に行って候補の場所をいくつか見た上で磊々峡を選びました。それまで磊々峡のことはあまりよく知らなかったのですが、行ってみて素晴らしい場所だと思いました。しかもそれが、県道沿いの駐車場から歩いて1分の所にあるんです。山道を歩いて大変な思いをしないと見られないような景色がそこにあって。なのに、人がほとんど来ていないんですよね。そういう場所があることを、観光客はもちろん仙台の人も知らないんです。仙台には素晴らしいものがたくさんあるのに、本当にもったいない。

磊々峡のライトアップは、観光地として盛り上がって欲しいという思いはもちろんありますが、仙台の人にも地元の素晴らしさに気づいてほしいという思いで携わりました。

秋保の磊々峡ライトアップ Photo:Kazuki.Endo
秋保ナイトミュージアム Photo:Kazuhiko.Monden

取材日:平成29年7月19日
聞き手:SC3事務局(仙台市産業振興課)
構成:岡沼 美樹恵

前編 > 後編

梅田 かおり

1989年千葉大学工学部工業意匠学科を卒業。1989年‐TLヤマギワ研究所照明計画室、1998年‐ヤマギワ(株)商品企画開発室勤務。1998-1999年フィンランドのヘルシンキ芸術デザイン大学(現アアルト大学)にてモノづくりを学び、2000年‐現地の設備設計事務所に照明デザイナーとして勤務。2005年 帰国後仙台でフリーランスの後、2006年ライティングデザインスタジオLUMEを開設。

〔照明計画空間分野〕
空港、オフィスビル、住宅、店舗、ホテル、学校、老人ホーム、博物館、美術館、ライトアップ、町全体の外構、イベント、その他

SEARCH

SITEMAP