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クリエイターインタビュー前編|伊藤典博(デザイナー/合同会社スカイスター代表)

東北に地縁と愛着を感じるからこそ、地域と育むデザインをしたいと思いました。

幼い頃から絵を描くことに興味を持ち、デザインの勉強に努めてきた伊藤典博さん。9年間の広告代理店勤務を経て、2012年に「合同会社スカイスター」を設立。デザイナーとして、第一線で活躍を続けている。これまでの経緯を辿るとともに、どうして仙台で会社を立ち上げるに至ったのか、その理由を聞いた。

―まずはデザイナーになったきっかけを教えてください。

小さい頃から絵を描くことが好きで、絵を続けてきた延長でデザイナーになりました。子どもの頃は、よく両親に美術館に連れて行ってもらったり、幼稚園から小、中学校と絵画教室にも通わせてもらいました。高校は美術がしたくて地元の美術部の活動がさかんな学校に進学し、部活と並行して美大受験のための美術研究所にも通いながら勉強していました。それと私は静岡県の伊豆の玄関口に位置する三島市の出身なんですが、身近に画家や陶芸家などの作家さんがいらっしゃいました。小学生の頃は池田満寿男さんが審査する絵画コンクールに応募したり、黒澤明さんのアトリエが近隣の御殿場にあったり、文豪と言われる人も多く伊豆とゆかりがありますが、井上靖さんの姪が私の通う小学校の先生だったりと、比較的、ものづくりや表現者といった事柄が身近にあった環境だったかもしれません。ですから、そうした著名な作家の方の名前も小さい頃から知っていましたし、作品にも触れていたので、そうした影響は大きいと思います。

―ということはデザインだけでなく、芸術分野について幅広く興味を持たれていたのですね。

そうですね。高校時代は美術大学への進学を希望していましたが、絵画や映画、演劇、写真、放送、音楽、文芸などの芸術分野にも関われるということで、日本大学藝術学部に進学しました。

―どのような大学生活を過ごされたのですか?

基本的には専攻するデザイン学科の課題、課題、課題の毎日でしたが、武蔵野美術大学や多摩美術大学の友人たちとグループ展をしたり、学内では他学科との交流もあり、私の場合は特に演劇学科の人たちと仲良くさせてもらいました。演劇学科の人たちの中には、すでに子役の頃からテレビや映画で活躍していたり、学生時代から劇団を旗揚げして小劇場等で公演していた人も多くいたので、仲間との広がりの中から劇団の宣伝美術を担当させてもらっていました。そこから、舞台や芸能関係のお仕事を紹介いただいたりして、徐々に仕事の感覚というか、デザインの現場に近い環境で学生時代を過ごしました。

学生時代に演劇学科の友人関係から広がった演劇のフライヤーデザイン

―その後は、どのような道を進まれたのですか?

卒業後は日本大学大学院の芸術学研究科に進み、造形芸術の研究と、引き続き舞台や芸能関係の宣伝美術に携わりながら過ごしました。2年間の修士課程を経て、広告代理店のクリエイティブ課にデザイナーとして就職しました。静岡、神奈川、東京といった首都圏を中心に3年間勤務した後、東北支店へ異動になったのをきっかけに仙台へ移り住み、今現在も仙台に住んでいます。会社員時代は、観光や交通、流通、食品関係など、さまざまなマーケットでプロモーションやキャンペーン広告のデザインに関わらせていただきました。各地の地域性や特色を感じながら、デザインに関わってきた感じです。

―学生時代と会社員時代で、感じたことの違いはありますか?

当時勤めていた会社は東北から九州まで10カ所以上の支店があるのですが、いろいろな地域の仕事ができたら楽しいだろうな、という魅力を感じました。その中で特に勉強になったのが、観光関係の仕事です。観光分野は当然、各地の特色をベースに景観や交通や産業、歴史や建築、祭りにグルメ、地区の取り組みなど、あらゆる要素を横断した思考の中でデザインの役割や可能性を探りながら目的に向かって走ります。ですから観光資源をどのようにつくるのか、生かすのか、あるいは見直すのか、地域について引いたり寄ったりしながら、さまざまな視点で継続的に捉える必要があります。そういう意味では、都内で限定して過ごした学生時代と、会社員時代の感じる視点の違いは大きくあると思います。

ポスター、新聞、パンフレットなど各地で手がけた観光のキャンペーン広告

-仕事も順調に進んでいた中で、なぜ独立を意識されたのでしょうか?

広告会社では仕事の起点や窓口は、営業の方が中心に展開されます。私は表現やアプローチ、着想点などアイディアやヴィジュアルに関わる部分は、クリエイターが直接お客さんにご案内することが必須で、加えてクリエイターがプロジェクトのプロセスやタイムリーな動向、お客さんの気持ちの変化までチェックできると、よりデザインの精度が上がると思ってきました。もちろん、組織の中での役割と対応はそれぞれですが、よりお客さんと目標なり課題とデザインが密着した関係を築けたらと考えていました。そうした考えの中で、首都圏の各地や東北で10 年近くデザインに携わり、年齢的に30 歳を過ぎタイミング的にデザイナーとしての経験値の中で一度は独立をと思い、そのときの環境を踏まえ、自分の気持ちや思いを優先して決断しました。

-ただ、地元に戻ったり、首都圏に戻ったりする選択肢もある中、どうして仙台を拠点にすることにしたんですか?

やはり、震災がもっとも大きな理由のひとつですね。もちろん今もそうですが、特にあの当時は東北で暮らし働く人の多くが「なんとかしなきゃ」という強い気持ちの中で過ごしていたと思います。震災後、ふるさとの東北に戻って来られた方がいらっしゃったのも、そういう理由だと思います。東北の人々ならではの風土といいますか、助け合いや、頑張り屋の気質といいますか、そうした環境の中で、あの時期に仙台を離れるという考えは浮かばなかったです。また、それまでの6年間を仙台で暮らして、東北のいろいろな方に親切にしていただきました。だからこそ、今度は自分から地域に溶け込んで、東北の地域と育むデザインをしたいと思うようになりました。

                取材日:令和2年3月3

撮影協力:宮城県美術館

取材・構成:郷内 和軌
撮影:小泉 俊幸

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伊藤典博

1979年生まれ。静岡県三島市出身。日本大学藝術学部デザイン学科、同大学大学院芸術学研究科の修士課程を経て、広告代理店に入社。首都圏、東北エリアで勤めた後、2012年に合同会社スカイスターを設立。受賞歴少々。ロゴデザイン、イラストレーション、パッケージデザインなど、企業・行政・団体・教育機関などのさまざまなデザインの企画、制作を手掛けている。

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