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こだまのどら焼(前編) 移り変わる時代の中で老舗を継いだ3代目の決意

戦後の動乱期に「人が幸せになるものを」と初代が創業して70年を迎えた仙台の老舗どら焼き店「こだまのどら焼」。高度経済成長を迎え順調に発展してきたが、バブルがはじけコンビニが台頭し消費者の行動も様変わり。時代に合わせた変化が求められる状況の中、株式会社こだまの社長に就いた児玉康さん。事業方針をめぐり日常的に議論を交わしていた亡き父の気持ちも理解できるようになり、3代目としてしっかり答えを出すことが人生のミッションとなった。

移り変わる時代の中で老舗を継いだ3代目の決意

−今年(2019年)で創業70年を迎えられました。その歴史を振り返っていただけますか。

児玉康(以下、児玉) 創業者である祖父はもともと山形の貧しい農家の生まれで、仙台へ丁稚(でっち)に出されます。奉公を終える時に雇い主の方に自動車の免許を取らせてほしいとお願いして、その後仙台でタクシーの運転手になりました。その後戦争に突入したんですが、祖父は幸いなことに兵隊には取られず、多賀城の軍事部品工場で働いていて、仙台空襲の時も見ていたそうです。

終戦になって仙台に戻った祖父は、生きる目的が分からなくなった。それでも家族はいるので、物資を運んで露店で売るなどして稼ぎにしていたんですが、それで人は本当に幸せになるのかと思い悩んでいました。そんな時、たまたま甘いものを売ったら非常に喜ばれて、それだったら自分で作って売ってみようと思ったらしいんです。

何の経験もないけどやってみようと、そういう行動力の強い人だったみたいで、上杉にいまもある玉澤総本店の職人さんに習って、素人でもできるものとして教わったのが長命寺という焼き皮の桜餅でした。そして昭和241949)年、自宅で駄菓子屋のような店を開いて、そこでお菓子を作って売り始めたのが最初です。

創業当時のこだまのどら焼

−最初はどら焼きではなかったんですね。

児玉 焼き皮の桜餅とどら焼きは同じ流し物(液状の生地を型に入れて焼き上げる菓子)で作り方が似ていますので、それでその後にどら焼きも始めたようです。うちでは求肥(ぎゅうひ)の餅が入ったどら焼きが名物なんですが、それは両方売れ残っていたのがきっかけだったとか。実験でちょっと入れて食べたらおいしかったので売り始めたら、それが大当たりしました。

このどら焼き、何て名前にしたらいいですかねとお客さんに聞いてみたら「児玉さんちのどら焼きだから、『こだまのどら焼』でいいんでないですか」と言われて、そのままひねりもなく決めて、それから70年。変わらずうちの会社の看板商品です。

祖父の代から続く「こだまのどら焼」を継いだ児玉さん

−戦後の発展期だった初代と違って、2代目は時代の浮き沈みにも直面されたと思います。

児玉 そうですね。おやじが2代目になりますが、僕と同じで大学を出て就職して脱サラして帰ってきて跡を継ぎました。ちょうど高度経済成長期に代を継いで、2012年に亡くなる3年前まで社長だったので、いい時代と悪い時代の両方を味わっているんです。高度経済成長期は作れば作るだけ売れたんですが、バブルがはじけて売れなくなり、気付けば競合他社にも囲まれている。単純に受け継がれたものをやっていくだけではなかなか経営が厳しいというところで、相当苦しんだと思います。苦労話もいっぱい聞かされました。

かまぼこ屋さんなど戦後に立ち上げて同じくらいの社歴でやっている会社が地元には多いんですが、やっぱり皆さん共通の悩みを持っていらっしゃるようです。いい時代があって、その時に設備投資をして拡大するんですが、老朽化などのいろんな問題をみんな同時期に抱えるようになる。いまは人手不足やコンビニエンスストアの台頭などで、より選ばれる理由を持った会社にならなきゃいけないという問題に直面していますが、そういう問題はおやじの頃から既にあったのかなとも思います。

言い方は悪いんですが、おやじの時代はちょっとあぐらをかいていたのかなと。作ればそれで売り上げが上がる勢いがあったところから、うまくいかなくなって、その時に本質的な原因を探れなかった。過去の成功体験で解釈しちゃうので、本質が見えなくなってしまっていたんですよね。

−それを冷静にご覧になっていたんですね。

児玉 意見の食い違いでかなりけんかもしました。「いいものを作れば路地裏に店を出しても売れるんだ」とおやじが言うのに対して、いまはそういう時代じゃないんだと。その路地裏に店があるのはどうやって知ってもらうんだ、探してまで来てもらうお店になるにはどうしたらいいかを考えないといけないんだと、そういう話で毎朝けんかしていましたね。

2代目3代目の間で意見の相違があるという、これもよくある話なんですよね。いま思うとおやじの言っている気持ちも分かるんです。おやじが亡くなったいまは、3代目としてその答えをしっかり出すことが、僕にとって人生のミッションになっています。

−先代はどんな方でしたか。

児玉 アイデアマンだったとは思います。とっぴなアイデアも多くて、面白い人でしたね。かんしゃく持ちでしたが、ひょうきんなところもありました。ねえ、元木さん。

元木由紀子(以下、元木) そうですね。試作もいろいろして、急に肉まんを作って「食べてみろ」と言われたこともありました。

販売部エリアマネジャーの元木さん

児玉 僕はそういうのがないんですよ。ある程度手堅いところを狙っちゃう性格なので。何で肉まんだったのか(笑) そこに懸けるリソースでほかにできることがあるんじゃないかと僕は思ってしまいます。

−元木さんは先代の頃に入社されたんですよね。

元木 高校を出て、昔から知っているどら焼き屋さんで働きたいと思って2004年に入社しました。最初は製造で入ったんですが、教えてもらうというよりは見て覚える感じだったので、必死でしたね。でもその後すぐ、先代の社長に「あんたは笑顔がいいから販売に行きなさい」と言われて、それからずっと販売部にいます。

児玉 元木さんが入った頃だと、習うより慣れろという職人的な指導がまだ通じた時代だと思うんです。そこでトライ&エラーを繰り返して経験値を高めて自分の仕事のスタイルをつくることができたんですけど、いまはもう通用しませんよね。僕もおやじにちゃんと教えてもらったことは一度もありません。

機械化が進む中でも手作業が欠かせない製造の現場

−時代の変化ですね。

児玉 いまはマニュアルで明確に共有化していくことが必要なんですが、元木さんのやってきたことをみんなが同じレベルでやっていくにはどうすればいいかという課題があります。肌感覚でスキルを積み上げてきた僕らのような人と、あらかじめ標準化されたもので自分のスキルをつくる人で、本当に同じことができるのか。

つまりマニュアルを完璧に作ったからといって大事なことがしっかり伝わるのか、疑問がありますよね。おやじが元木さんの笑顔をいいと言った話がありましたけど、そこは接客の本質で、マニュアルに書いてあるからできるということではないですよね。

取材・構成:菊地 正宏
撮影:松橋 隆樹

 

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株式会社こだま

本社 〒984-0001 宮城県仙台市若林区鶴代町6-77
TEL:022-235-5533 FAX022-238-9043

仙台市内を中心に直営店5店舗。仙台駅構内、仙台国際空港、サービスエリア、大型スーパーなど卸売りを展開。

【想い出販売業】として…「おばあちゃん家にいつもあった」「うちのお母さんとお店に買いに行った」「亡くなったおじいちゃんの好物だった」「お父さんの職場のお土産でもらった」
当店のお客様にお話しを伺うと、皆さま一様にご家族との楽しい思い出を語ってくださいます。
70年前から今日まで「こだまのどら焼」をお買い上げいただいたその先で、私たちの商品やサービスをきっかけに多くの【想い出】がつくられてきました。そしてこれからも「こだまのどら焼」を通じて、お客様と大切な方が明るく楽しい場をつくられることを願っております。
~大切な方に親しみを込めて贈るなつかし味~
こだまのどら焼はこの言葉を思い描いて、原材料にこだわり、作り手の技術はもちろんのこと、「またこのお店に来たい」と思っていただける店頭での接し方に至るまで、ひとつひとつの手仕事を大事にして参ります。

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