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クリエイターインタビュー|千葉 太郎さん(前編)

フリーの映像クリエイターとして、広告の映像制作を中心に手掛ける千葉太郎(ちば たろう)さん。宮城県内を拠点に活躍する千葉さんのこれまで・これからのお仕事についてお話を伺いました。

 

―カメラマンになるまでの経歴と目指したきっかけを教えてください。

仙台育英学園の秀光中等教育学校という中高一貫の学校に通っていました。本を読んだり文章を書いたりするのが好きで、文学部に入りたいと思ったんですが、東北の大学で文学部があるのが、当時東北大学と盛岡大学のふたつだったんですよ。人文科学部の中に、文学部的なものがある大学はあったんですけど、「文学部」としてあるのはそのふたつしかなくて。それで、自分の学力で入れる盛岡大学の文学部に進学しました。

カメラを始めたのは大学3年生のころでした。当時、スチール写真がすごく好きな友達がいたんです。一日に千カットとか余裕で撮って、毎日家に帰ると暗室に改造したトイレにこもって、ニヤニヤしながら自分で現像しているような人で。その友達を見て、「そんなに楽しいなら、ちょっと自分もやってみたいな」と。せっかくやるなら誰かから教えてもらった方がいいと思い、求人の広告を見たら、結婚式場でアルバイトのカメラマンを募集していたんです。いざ行ってみたら、同じカメラでも写真じゃなくて動画の方だった…というのが、カメラを始めたきっかけです。

―最初は、スチールをやりたかったのですか。

「これがやりたい」と強く思っていたわけではなく、「そんなにカメラって楽しいのかな」っていうくらいの気持ちでした。

その結婚式場は、全国展開のひとつとして新しく盛岡に進出したばかりだったので、その会社に所属している、映像やスチールの一番うまい人たちが全国から集まってきていたんです。上手な人って、人に教えるのもすごく上手で。映像の技術だとか、楽しさだとか教えてくださって。なんて楽しい世界なんだ!って思ったんです。

―ちなみに、その大学時代のお友達は今も写真を続けているのですか。

今も陸前高田で、林業をしながらカメラを続けています。僕みたいな広告の世界でなく彼は芸術系で、なんかよく分からない写真をずっと撮り続けています(笑)。

―千葉さんがフリーランスになったのは大学卒業後ですか。

在学中からフリーとして仕事は請けていました。

―それは、どういう経緯で仕事がきていたのでしょうか。

理由は忘れてしまいましたが、デザイン会社の人とつながって、その人からお仕事をいただいていました。当時、一眼レフのカメラで動画を撮影するのってまだ珍しい時代で、岩手県にはそういう人がいなくて。それでいろいろ仕事をふっていただいていた気がします。

卒業してからは1年くらいフリーでやって、2013年にミヤギテレビサービスに就職し、そこで丸4年働きました。

―それまでのお仕事とテレビのお仕事ではどういった違いがありましたか。

違いはとにかく大きかったですよ。まず、結婚式場の撮影はやり直しがないんです。撮る対象はもう出来上がっているものとして、それをただただ自分がベストだと思うように撮る。それがテレビの場合は、自分で撮るものを決める、画をつくっていく。そしてそれを撮っていかないといけないので、全然違いました。

あと、細かいことですけど、結婚式場のカメラマンからフリーになる人は、音をきれいに録れないとか、照明にすごく弱いとかっていう壁に100%ぶつかるんですね。でも、そういう問題への解決策を、テレビの現場に入ってから勉強することができました。

―結婚式場ではあまり音を録らないということですか。

記録映像とかで使うことがあったとしても、ガンマイクで録れてしまうので、音に関しては楽なんです。

―テレビだと照明さんがいて、音声さんがいて…。そういう技術をどんどん取り入れていったんですね。

そうですね。

―ちなみに、ミヤギテレビサービスに入って最初の仕事は何でしたか。

番組としては「OH!バンデス」でした。でも本当の最初は、ミヤギテレビの中にある食堂を取材してこいって、当時の上司から言われてつくったものですね。放送はされていないんですけど。

―入社して教えてもらったことで印象に残っているのは?

当時の上司である師匠からは、「映像は気遣いだ」って言われて。これは、映像だけじゃなく多分全ての仕事に通じるとは思うんですけど…。テレビ番組はひとりでは絶対つくれないですし、映像だってひとりじゃ絶対つくれない。いろんな人に気を遣うというのは、テレビ局で教えてもらいました。

2013年の8月に入って、カメラマン兼ディレクターとして活動されたと伺いました。

僕は最初技術志望で、カメラを回したくて入ったんですけど、会社に伝説的なディレクターさんがいて。その人は「水曜どうでしょう」とかが出る何年も前に、“ディレクターがカメラを回す”っていうのをかなり早い段階からしていた人なんです。今まではでっかいカメラでやっていたロケを、デジと呼ばれる小さいカメラで、ひとりでカメラマン兼ディレクターみたいなのをやっていた。上司から「そういう人がいるから、つけ」って言われて、その人の直属の部下のような感じになり、カメラと現場のディレクションを両方やることになりました。

最初の結婚式場でもそうでしたが、一流の人に教えてもらえたんですね。

そうですね。師匠に恵まれて。僕、運がいいんですよ、とにかく。

―入社後4年で退社してフリーランスになった経緯を教えてください。

テレビ番組をつくっているうちに、視聴者という漠然とした相手に向けて何かをつくるよりも、誰かのために、という対象が明確なものづくりをしたくなったんです。それで、広告をつくりたいと思ったのが辞めた理由のひとつです。

―辞めて、フリーで食べていける自信はありましたか。

どうにかなるなって思っていました。僕は守るべき家族もいないですし、自分ひとりだったら、コンビニでアルバイトとかしてもいいわけで。まぁ、どうにかなるでしょっていう。

―広告の映像をつくるときに、ディレクター時代に培った“現場を回せる力”を活かせていると思いますか。

僕程度の経験だと、回せているとは言えないと思うんですけど、ただ、気持ちを理解することはできていると思います。要は気遣いですよね。例えば、テレビ局の番組の取材クルーだと、気を遣う側と気を遣われる側が複雑で。この場面では自分は極力前に出ないようにするだとか、その人がどういう風な現場を踏んで来たのかを想像して、技術さんやいろいろな人に接するとか。現場の種類によって細かいことが結構あるんです。

取材日:平成30年2月22日
聞き手:SC3事務局(仙台市産業振興課)、岡沼 美樹恵
構成:岡沼 美樹恵

 

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千葉 太郎

1989年宮城県生まれ。

仙台を拠点に、主に広告やテレビ番組を制作。

ディレクター・映像カメラマン・エディターとして、様々な案件に参加。

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